栃木県栃木市藤岡町 本物の絶品うなぎ(共水うなぎ)をぜひ『うなぎ料理専門店せしも』でご賞味ください。

完全予約制 本物のうなぎ 

栃木うなぎ料理専門店せしも

〒329-0316 栃木県栃木市藤岡町石川315-2
https://www.unagi-seshimo.jp
営業時間
お食事  12:00~14:00(ラストオーダー13:30)
     17:00~20:00(ラストオーダー18:30)
       【通常営業は17:00~21:00(ラストオーダー19:30)】
物販営業 9:00~18:00

 

定休日:日曜夜・月曜・火曜

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当日来店も承りますが、お席の関係で
お待ちいただく事もございます

 

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0282-67-2551

せしもの歴史

先祖は

遠くは、1148年、久安4年 開城した小山城の出城、前原城の殿様の教育係の末裔だと、聞いています。単純には870年以上、ここに住んできた一族の末裔です。その前は、群馬からくだってきたとか・・・ そこは、確かではありません。

確実にさかのぼれるのが、ここまでです

北条方についていた、小山城は、徳川幕府が出来た際の
1619年の城のお取り壊しをきっかけにして

今住む地域、栃木県栃木市藤岡町石川を、開拓し、名主になったのが

それが、大本家

足尾鉱毒の際、谷中村の方々66軒、160名あまりををひきつれ、

ぼくから数えて6代前まで、襲名していた 瀬下六右衛門さんが
北海道に開拓しにいってしまったのも、大本家

北海道サロマ地区に、栃木神社を祭ったのも大本家
名主で、
渡良瀬遊水地で、昔では、石川沼と、言いますが

そこのカモ猟の場所を持ち、

宿泊施設で都内の省庁関係の方々を泊めて
カモ猟を楽しませていたのも、大本家

その大本家から分家したのが、ぼくの曾祖父になります

ちなみに、母方の祖母は、大久保利通の、ひ孫なんだそうです。

一応、ぼくも、大久保利通さんと、血は、つながっているのかな^^

西郷さんに対する、非情な歴史は、心地よくないですが、

でも、当事者的には、いろいろと、おありになったのだろうと

思うようにしています。

曾祖父 曾祖母

そんな、大本家から、4代前に分家した、
曾祖父は
すだれの元、よしずを作ったり、夜中、漁師をして、高瀬舟の船着き場の問屋に卸したりして、田んぼやったり、もんぺを編んだり、さかなの仕掛けをつくったりして、生計を立てていたようです。

高瀬舟の船着き場は、それは、それは、華やかな場所だったと、祖父から聞きました。

高瀬舟の船着き場は、江戸時代、関東地方の流通の要、で、関東地方に200か所以上

船着き場があったようです。いまでいう、AMAZONの物流拠点といったら、大げさですかね。。。

また、
カモ猟をしたり、


曾祖母は、船着き場の盛り場へ、川魚を天秤で販売しに行ったり
売り先で、魚をさばいて販売したと、聞いています

そんな曾祖母の逸話が、せしもには、あり

いまでいう、乞食さんをひきとめては、お風呂にいれ、食事をだして、服まで新調して、がんばって、いきるんだよって、けっして裕福ではなかったのに、そんなことをしていたと、祖母から聞きました。

そんな祖母も、ひとに、たくさん尽くした祖母でした


牛をひいて、百姓もしたり、行商したり、カモ猟したり
曾祖父は猟銃の名手だったと、聞いています
それが、いまの分家してからの、せしものスタートです。

当時は、牛ガエルを、1日40キロも捕って、東京に販売していた方も
たくさんいたと聞きます。
近所中がみんな漁師そして、百姓
そんな村だったと聞きました。
ですので、近所の方々は、助け合いと言うか、仲間意識がとても強く
最近は、薄れてきたとはいえ・・・
近所つながりの、強い地域だと思います。

祖父 祖母

せしもに一番近い川は、うずま川といい、
高瀬舟の船頭さんが、渡良瀬川から、
うずま川にはいると、川がきれいなので、川から水を汲んで、
お茶を沸かしたと、祖父から聞きました。

それくらいきれいな川だったので、魚がとってもおいしかったと言っていました。

腕回りもある鰻が、たくさん捕れたんだとも、祖父から聞きました

合成洗剤の流行する昭和30年ごろまで、川で泳いで遊べたらしく
遠くまで、澄んだ川の映像を見せたかったと、よく、つぶやいていました

沼地で船をこぐと、魚が船の中に飛び込んで、邪魔くらい魚がいたとも祖父から聞きました。

関東地方に200箇所以上あった、高瀬舟の船着き場が近くにあり
川魚問屋も4軒ほどあったそうです

明治の足尾鉱毒と、河川工事により、今で言うと40億以上あった
川魚の水揚げが
激減し、川魚問屋が無くなっていき、終戦後のタイミングで、
逆に祖父は、オート3輪車を購入し、
霞ヶ浦や、牛久沼、まで、往復6時間の道のりを走り、
魚を仕入れ、販売。

一人での販売では、たかが知れていたので、近所の主婦を集めて、
川魚の行商で、お店を大きくしました。
曽祖母は、販売先で、魚をさばきましたが、
祖父は、お店でさばいて、売りに行くスタイル
をとったみたいです。

祖母は、約50年も、行商をしていましたので、
世の中の移り変わり、商売をするうえで、一番大事なのは、
家族を大切にすることだと、口を酸っぱくして、いつも教えてくれました。

また、人を大事にするのは、自分のためではないよ
自分が、人を大事にするのは、自分の為じゃないぞ
孫のお前が可愛いからだと教えてもらいました

自分が、人を大切にすることで、回りまわって、
孫のお前が、世の中から大切にしてもらえるからなんだぞって。

たらいの水を、どうぞ、どうぞ、って相手に渡すから、まわりまわって、帰ってくる

世の中は、そういうもんだ

人にしたことは 忘れろ
人にしてもらったことは、一生忘れてはだめだぞ

とも、いろいろな、格言を教えてもらいました。

自分のことしか考えなくて、ひとを困らせて、家が無くなったたとえも、
たくさん聞かせてもらいましたし、
自分のことしか考えずに、老後みじめな亡くなり方をするたとえも、
たくさん教えてもらいました。

いろいろな、えらい、先生方が、セミナーで話す内容は、

ふりかえると
ぜんぶ、祖母から教えてもらったことばかりでした。

そんな、年寄りになっていきたいですね。

そうそう、

甘露煮の加工も、土地柄保存食として、食べていたようです。

自分の小学校低学年、35年前くらいが、行商の全盛期だったとおもいます
当時、車もさほど走っておらず、スーパーがほとんどありませんでしたから、
行商で、配るように売れたんだと、聞きました。

両親

そんな祖父が、父に対してアドバイスしたのが、
この先、川魚の生は、売れなくなるから、
加工技術を覚えなさい
という事で、父は、東京麹町の鰻屋の秋本さんをはじめ、
大利根ゴルフカントリーや、レストランで、鰻の修業をしました
ですが、甘露煮と、川魚の行商人の卸しにおわれ、
鰻の食堂、レストランをやりたい、レストランをやりたい、
が、口癖でしたが、うなぎ料理は、趣味的に、知人、親類にふるまう感じで、
とうとう、甘露煮に追われた人生でした

とにかく、高度成長期と言うこともあり、
働きぬいた、両親でした

母は、古河の甘露煮屋さんで、甘露煮の修業をして、
甘露煮の製造販売と、行商で、大きくしたみたいです。

父は、鰻の白焼を、レストラン、お寿司屋さん卸しもやっており、
自分の幼少期、乗用車での配達。
子供からしたら、ただの乗用車が、スーパーカーに思え、それで、鰻を配達する
父の姿と、焼き立ての白焼の香りが、忘れられなかった記憶があります。

祖父、祖母、両親と今はいませんが、
家族で、楽しそうに働く姿が、忘れられません。

瀬下 知也

高校で剣道三段
商売を見てきたので、高校卒業してすぐに、鰻屋に行きたいと
父に相談したら・・・・・

続きは、なぜ、鰻屋になったのかで・・・